6月14日:礼拝メッセージ

6月14日   礼拝メモ       (T・O)
  ヨハネ3章16節     (説教) 朝比奈悦也師
 「永遠のいのちを持つ」
         

  意義深い召天者記念礼拝の朝。クリスチャンにとって故人を偲ぶとは、故人を単に思い起こすに止まらず、将来を展望しつつ故人を思い、偲ぶものである。その観点から、聖書の中で最も有名なおことばである【ヨハネ3章16節】を通して、「永遠のいのちをもつ」とはどのようなものなのかを学ばせていただく。

 

一、地上の一切のことからの解放
  私達は様々な制約、制限の中に生き、拘束や束縛を感じている。仕事の苦労、病い、老いゆえの問題等々。地上でのこうした様々な重荷、苦しみ、悲しみ、痛み、思い煩い、不安、心配、恐れ、焦り、動揺、混乱…を感じながら、厳しい現実を生きている。永遠のいのちは、地上の一切のことから解放される。

 

二、憩い
  解放されるとき、そこには憩いがある。神様は私たちを見ておられ、歩んできた人生に相応しいねぎらいを、余りある報いをお与えくださるお方である。この神様のねぎらい、報いを受けるとき、私たちは心からの喜びと満足、憩いを経験する。これが私たちに与えられる永遠のいのちである。

 

三、再会
  信仰を持って先に天に帰られた方々と再会することができる。この地上の出会いには必ず別れが来る。しかし神の国における出会いには別れはない。愛した人、親しく交わった方々と、二度と別れることのない再会を果たし、交わり、くつろぐことができる。これが永遠のいのちである。クリスチャンは、この永遠のいのちがあることを信じながら生きている。厳しい現実の数々に直面しながらも、この永遠のいのちへの希望があるので、頑張ることができる。この希望が私たちを励まし、支え、力となって、現実問題に立ち向かい、乗り越えていくことができ、やがて迎える死の現実をも、永遠のいのちを信じているので、静かに受け取ることができる。

 

  信仰をもって先に天に帰られた方々は、去って行った過去の方々としてではなく、やがて神様の御許で永遠の再会を果たすことができる方々として、希望をもって、喜びと感謝のうちに、召天者記念礼拝において故人を偲ぶことができる。生きるにしても死ぬにしても、希望を失わない人生を実現するのが永遠のいのちである。この永遠のいのちを得る方法は、イエス・キリストを信じる信仰である。私たちもこの永遠のいのちをもつ信仰をしっかり握って進ませていただきたい。