3月20日:礼拝メッセージ

   3月20日   礼拝メモ       (T・O)
  ルカ19章41~44節、他  (説教) 朝比奈悦也師
 「イエスの涙」

 

 今週は受難週である。イエス様は3年半の公生涯、伝道活動を終えられて、十字架に向かわれた。いよいよ都エルサレムに近づいたとき、都を見てイエス様は涙を流された、とある。このイエス様の涙は、私たちの運命を決定するほどの重要な意味が秘められた涙である。その涙の意味について3つのことを学ぶ。

 

一、自分のための涙?
 私たちが涙を流すとき、苦しみや悲しみ、怒りや不安、痛みや恐れなどの理由がある。イエス様が涙を流された理由は何であったか。この時、イエス様は間もなく捕らえられ、辱められ、十字架にかけられて死ぬ、ということをよく分かっておられた。それは、誰も耐えることのできない深い苦しみ、悲しみ、辛さであって、どれだけ涙を流しても流しきれない状況であられた。しかし、イエス様はそれらの理由で涙を流されたのではなかった。

 

二、イスラエルの民を、全ての人を愛するがための涙
 イエス様は、人々に真理を語っても彼らは理解せず、罪の中をさまよい、幸せを求めながら不幸を刈り取り、やがて永遠の滅びに向かう運命にある彼らの姿をご覧になって涙を流されたのである。喜んでイエス様を迎えたかと思うと数日後には十字架につけよと叫ぶ民衆。信仰熱心でありながらその心は空しく、妬みと殺意に燃えていた宗教指導者達。そしてローマの圧政に苦しみ、渇き疲れていたイスラエルの人々はやがて紀元70年にはローマに滅ぼされ、祖国を失い、放浪の民となることもご存知であった。イエス様は彼らを心から愛していたので、そのような彼らを思って涙を流された。

 

三、父なる神への愛の涙
 このように滅びに向かう魂を救うためにひとり子をも惜しまずに何としても救いたいと願われる(ヨハネ3・16)父なる神様の愛のお心がイエス様には分かれば分かるほど、ご自分も何としてでも愛する父なる神様のみこころが実現されるように願われ、父なる神様を愛するがゆえの涙を流された。イエス様は父なる神様を心から愛しておられたので、ご自分を犠牲にして十字架にかかることを喜んで受けられた。

 

 私たちは、人を、自分に敵対する人すら愛するよう、そして真実な愛を注いでくださる神様を愛して生きる者となるために救いに導かれた。神様は求める者に愛を与えてくださる。この愛に生きる時、真に幸いな生涯が実現する。愛に生き、成長するお互いでありたい。