9月4日(日):礼拝メッセージ

9月4日  礼拝メモ          (T・O)
 ヨハネ14:6     (説教) 朝比奈悦也師

「主による三重の救い」

 

 今日の聖書箇所には、イエス・キリストとはどのようなお方であるのか、そして私たちの人生にとって是非とも必要な3つのもの、道・真理・いのちを提供してくださるお方であることが語られている。その3つのことについて学ぶ。

 

一、道:迷った人生からの救い
 人生は選択であると言える。何を食べるか、何をするか、どう生きるのかなど、日々選択しながら人は生きている。重要な問題課題であればあるほど、その道の選択は簡単ではない。どのようにすれば良いか分からず、迷い、不安になり、心配し、動揺、混乱し、疲れ果てる。このような現実の中に生きている私たちに向かって、イエス・キリストは「わたしが道であり」、進むべき道を示す(詩32・8,詩119・105,イザ35・8)と語られた。迷った人生を送っていないだろうか。キリストは私たちに道を明確に示し、救われる。

 

二、真理:あやまった人生からの救い
 真理・正しいことを見失い、誤った道にいくとき、罪と呼ぶ。社会は罪で満ちている。その原因は人間の心に罪が存在しているためで、真理を見失い、罪の生活を送っていると聖書は教えている。表面的には体裁を繕っていても心の中は自己中心で、嘘、裏切り、盗み、妬み、憎しみ、暴力、いじめ等で満ちている。これらは政治や経済、教育等で解決できるものではない。イエス・キリストは「わたしが真理であり」何が正しいか、何が誤っているかを示すと言われ、ご自分の実生活を通して罪を犯さない生涯があることを示された。そして私たちの犯した罪を解決してくださるためにご自分のいのちを犠牲にして償いをなし遂げてくださった。あやまった罪の人生からの救いがイエス・キリストにある。

 

三、いのち:不幸の人生からの救い
 聖書には、いのちは幸せを、死は不幸を意味する言葉として記されている。迷った人生、あやまった罪の人生は不幸をもたらすが、「わたしはいのちなのです」と語られたイエス・キリストは、これらの不幸から私たちを救い出してくださり、いのちを提供し、幸いをもたらしてくださる。このいのちを受けることができない人はひとりもいない。如何なる人であっても、求める人は受けることができる。

 

 道を見失い、あやまった人生を歩んでいないか。心の渇いた不幸な人生を送っていないか。迷った人生から、あやまった罪の生活から救い出し、渇いた心の人生から豊かな潤いのある人生へと造り変えてくださるイエス・キリストに信頼を置いてぜひ踏み出されるように。