10月30日(日):礼拝メッセージ

10月30日 礼拝メモ          (T・O)
ローマ1章1516節   (説教) 朝比奈悦也師
「私は福音を恥とせず」

 

 先週の礼拝では、パウロの福音宣教に対する理解と姿勢を通して、私たちも神様によって選ばれ救われた者として、福音宣教はゆだねられた務めであり、ベストを尽くし、生活のすべてのことを通して証しすべきであるということを学んだ。今朝もパウロを通して、伝道のあるべき姿を3つのポイントから学ぶ。

 

一、福音は恥?(16節)
 キリストの福音を宣べ伝えることは恥なのか。当時の人々にとって、十字架にかかって死ぬということは最大の恥であった。十字架は極悪人が処刑されるためのもので、この世に存在する価値のない者と見なされた者が十字架に架けられた。十字架刑で殺された者の家族や親類縁者は末裔に至るまで恥として背負わなければならなかった。そのような十字架にイエス様が架けられた時、弟子達は皆イエス様を捨てて逃げ去り、自分たちも同じ目に遭うことを恐れて、戸を堅く閉じて隠れていた。

 

二、福音を恥とは思いません(16節)
 パウロは福音を恥と思うどころか、誇りだと語る。ガラテヤ6章で、十字架に比べるなら他には誇りとするものは何一つない。最高の誇りだと語っている。全く罪を犯されなかったお方が、人間の罪を一身に背負い、身代わりとなって十字架で死に、人間のすべての罪の解決をなし遂げてくださった。永遠の滅びを招く罪から救い出され、神の子とされ、永遠のいのちに至る者としてくださったのである。これに優る祝福はない。それゆえパウロは、福音を恥とは思いません、と叫んだ。

 

三、ぜひ福音を伝えたい(15節)
 このすばらしい救いを経験したパウロは当然のごとく、ぜひ福音を伝えたいのです、と叫んだ。この「ぜひ」というギリシャ語には「意欲満々、熱望する、何が何でもやらずにおられない」という意味がある。恥は隠そうとするが、誇りとするものは知らせたいと思うもの。まして他には比べものにならない価値あるものであるなら、是が非でも伝えたいと思う。戸を固く閉ざして隠れていた弟子達は、聖霊が臨んだとき、福音の素晴らしさに目が開かれ、喜びに溢れて人々の前に出て行き、力強く福音を語り出した。救いの恵みの素晴らしさを体験するとき、ぜひ福音を伝えたいと願い、喜んで福音のためになし得る限りを果たすようになる。

 

 私たちも福音の素晴らしさを味わい、ぜひ伝えたいと願う生き方をさせていただきたい。