1月15日(日):礼拝メッセージ

1月15日 礼拝メモ          (T・O)
マタイ4章10節    (説教) 朝比奈悦也師

「主なる汝の神を拝し」

 

 この箇所では、イエス様が悪魔の誘惑を受け、それに勝利したことが記されている。しかしこの誘惑は簡単なものではなかった。悪魔は狡猾で、私達の弱点、心ひかれるものは何なのかをよく知り、それを用いて誘惑するために私たちに近づいてくる。しかし、イエス様はその誘惑にかかられなかった。それは、礼拝とは如何なるものであるのかをよくご存じであられたからである。そこで今朝は、礼拝とはどのようなものであるのかを3つの点から学ぶ。

 

一、礼拝の歴史
 聖書には人類歴史、イスラエル人の歴史、キリスト教の歴史が記されているが、聖書には人類の最初から神を礼拝してきたことが記されている。そして今日に至るまで礼拝が続けられてきた。しかしあらゆる時代において、あらゆる場所で、この日本においても、信仰のために迫害を受け、命が奪われる危険に直面させられてきた。それでも礼拝を止めるということはなかったのである。

 

二、礼拝の意味
 礼拝では、神を賛美し、神に祈り、神に目を向けることがなされる。また、神のことばが語られ、紐解かれるが、それに耳を傾けて受け止め、信仰を告白して立ち上がり、従う、という営みがなされる。この礼拝において私達の信仰が養われ、神の恵みの中に生きることが可能とされる。イスラエル人達は礼拝こそが彼らの命の綱、生命線であるということを自覚していた。私達が神様の恵みと愛を頂戴できるのは、ただ信仰によるのであるが、この信仰は、礼拝において養われる。やがて私達はこの地上生涯を閉じる時を迎えるが、永遠のいのちを頂戴するのも信仰によるのである。このように信仰は私たちにとって生命線であり、礼拝はこの信仰を養うために何としても守るべき大切なものである。

 

三、礼拝の位置づけ
 神殿はエルサレムの中心に据えられ、会堂は主要都市に造られ、人々はそこを中心に生活し、礼拝を献げてきた。礼拝は信仰者にとって土台である。その上に個人生活があり、家庭生活があり、社会生活が営まれてきた。信仰者の土台、中心は礼拝である。何はさておき先ず、神様への礼拝がなされなければならない。礼拝への順番、位置づけを間違えないようにしたい。

 

 この一年、礼拝において信仰の養いを頂戴し、神様の祝福の中を真っ直ぐに進むお互いでありたい。