2月12日(日):礼拝メッセージ

2月12日  礼拝メモ          (T・O)
  ルカ15章11~24節    (説教) 朝比奈悦也師
「最善を信じる信仰」

 

 今日のイエス様のたとえ話は、キリスト教の教えのすべてと言っても過言でない。真理の宝庫、とも言われている。神の愛、そして神の愛の故にもたらされる救いが如何に素晴らしいものであるのかが語られている。人間の罪、罪の悔い改め、悔い改めによってもたらされる幸い、祝福の数々がちりばめられている。ここから、イエス・キリストを信じる信仰とはどのようなものであるのか、そしてそれが私たちの現実生活の中でどんなに価値があり、大切なものであるのかを学ぶ。

 

一、最善を信じる信仰
 すべてのことをなし得る力を持っておられるイエス・キリストは、私たちを愛するがために私たちの最善を願い、明確な意思をもって最善を成し遂げてくださる。20節・22節では、父の放蕩息子に対する姿にそれが現されている。しかし最初、放蕩息子はお父さんの愛と最善を信じることができず、お父さんから離れ、自分の求めに向かって突っ走り、遂にすべてを失って行き詰まり、死の直前まで転落してしまった。これは神の最善を信じない生活のもたらす姿であって、私たちに神の最善を信じる信仰が如何に大切であるかを教えている。


二、最善を実践する信仰
 父の愛に気づかず、勝手気ままに生き、死の直前まで追い詰められてはじめて父のところに幸いがあったことに目覚めた息子(17節)。彼は自分の過ちを心から悔い改め、人生の方向転換を果たした(18・19・21節)。神様がくださっているものが最善であると信じることができたとき、自分の罪を心から謙って詫び、最善のお方のもとに帰り、最善の生き方を始めることができた。このように私たちも神様の最善を信じ、最善を選択し、最善を生きる互いでありたい。

 

三、最善を刈り取る信仰
 この息子は最善を信じる信仰を働かせ、最善を実践したとき、彼が思うより願うより遙かに優る祝福を得ることができた(22・23節)。パウロの生涯を見る時、自分にはマイナス以外の何ものでもないと思う病に対し、その中でこそ神様の恵みが満ち溢れていることを心から受け止めることができ、喜びと感謝の心をもって神様の最善を信じ、自身のベストを尽くして生きた。イエス様を信じる信仰は、この地上生涯のみならず永遠に至るまで最善を刈り取ることができる。

 

 神の最善を信じ、最善をなし、最善を刈り取るイエス・キリストを信じる信仰をもって、私たちはこの先、生涯にわたって歩ませていただきたい。