8月19日(日):礼拝メッセージ

8月19日  礼拝メモ           (T・O)

 詩篇133篇1~3節     (説教) 朝比奈悦也師

「見よ。なんという幸せ」

 

 この聖書箇所には、聖書の教える幸せとはどのようなものなのかが記されている。

 

1、聖書の教える幸せ

 人の考える幸せは、物事がうまく運び、整えられた状況で、皆が楽しく生きられることであるが、聖書が教える幸せは、そのような限られた中での幸せではない。どのような中にあっても味わうことのできる幸せである。物事がうまく運ぼうが運ぶまいが、困難と悩みの中にありつつも尚、幸せが確認できるというもの。使徒パウロは、患難をも喜ぶ、と語っているが、神を知り、神の恵みの中に生きる時、患難の中でしか見いだせない恵みがあることを汲み取ることができる。状況に左右されない幸せこそが真の幸せである。

 

2、兄弟たちが一つになって、ともに生きる幸せ

 同じ信仰をもつ兄弟姉妹とともに生きることは最強である。信仰をもつ者同士が、喜ばしい時も、問題課題の中を通過するときも、神を信頼する信仰によって心が一つにできる家庭、教会は力強い。そこは真の幸いを経験しあう者同士の集まりであり、「なんという幸せ。なんという楽しさ」と告白できる幸いがある。

 

3、幸せの理由(23節)

 それは3節で、信仰によって心を一つにできる集まりには、神様がとこしえのいのちの祝福を与えてくださるからだとある。とこしえのいのちの祝福とは、祭司の任職の時に注がれた油が頭頂から衣の裾にまでしたたり落ち、全身に油が注がれたように、またヘルモン山に降り積もった雪が露となって周辺のパレスチナ地方全体を潤し、豊かな農作物をもたらすように、神様は私たちの生活全般にわたって祝福を与えてくださるということ。病と闘いながら伝道し続けたパウロが、そんな厳しい中であふれるばかりの神様の祝福を経験したと語っている。神様の与えてくださる祝福は、信仰生涯において途絶えることのない祝福であり、次の代へ次の代へと継続されていく祝福であり、永続し続ける祝福である。神様が存在する限り、祝福は途絶えることなく、とこしえに存在し続ける。そして今、私たちはこの祝福に与っている者である。

 

 これからも私たちは様々な人生経験の中を生き続けていく。喜ばしいときも、困難や問題の中を通過するときも、神様から私たちに注がれる恵みと祝福はすべての領域に及び、有効に働く。とこしえの祝福を与えてくださる神を信じ、この神様を見上げて進み行かせていただこう。その時、「なんという幸せ、なんという楽しさ」と心から告白できる信仰生活を送らせていただける。