4月21日(日):礼拝メッセージ

 4月21日  礼拝メモ            (N・M)

 マタイの福音書28章16~20節 (説教)朝比奈悦也牧師

「復活の主の御約束」

 

 使徒パウロは、コリント人への手紙で、イエス・キリストの十字架と復活を最も大切なこととして伝えている。この十字架と復活は、弟子たちにとってどういうものであったか。彼らにとって、十字架のイエスさまは悲劇の出来事であった。しかし、その弟子たちに、よみがえりのお姿をもって主は現れてくださった。イエスさまは彼らと話し、食事をともにし、体に触れさせなさった。事実をもって復活を現しなさった。そして、使命を与えなさったイエスさまは、最後に御約束をしてくださった。「・・・見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節)ここから、主がどういう御方かを3点から学ぶ。

 

1、共有(ともに分かち合い、負ってくださる主)

 主は、弟子たちだけに重荷を負わせるのではなく、ご自身その重荷を負ってくださる。「我に来る者、我これを退けず。」と仰る御方である。いつでも自分のこととして人々と接しなさった。社会的に弱い立場の人々やご自分に対して悪を図る人々にも温かく共有なさった。救いを必要としている人々に手を差し伸べなさった。「どんなことであっても私のところにもってきなさい、ともに負いましょう。」とおっしゃられる御方である。

 

2、共感(相手を理解してくださる主)

 家族や親しい人たちに共有できないことでも、主は共感してくださる。また肉体的、精神的痛みは、当事者にしか分からないことであっても、主は理解してくださる。心の奥底の叫びを理解してくださる。イエスさまご自身、十字架の道を歩まれたからである。

 

3、共闘(ともにたたかってくださる主)

 主は、ともに闘ってくださる御方である。特に、私たちがどうすることもできない罪の問題、背負いきれない罪の問題に対して、主は、「私がそれを負う。」と言って、十字架で私たちの全部の罪を負って、闘ってくださったのである。ひむなる105番「たとえばわたしが」(あしあと)では、私たちが最も辛く悲しいときには、主イエスさまが私たちを背負ってくださっていると賛美されている。そのように、主はわたしたちとともに闘ってくださるのである。

 

 共有し、共感し、共闘してくださる主とともに、信仰をもって進んでいきましょう。